映画「光のノスタルジア」(2010)by.かりん

ドキュメンタリー映画

『光のノスタルジア』(パトリシオ・グスマン、2010、フランス・チリ・スペイン)

 

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砂漠の星と骨

 悲劇には必ず、加害者と被害者と、激しい悲しみと怒りが遺される。それらは事件が終わっても、この世界に存在し続ける。

 でも、むごたらしい悲惨な過去なんて、誰も思い出したくない。なぜなら私たちはこれからも生きていかなくてはならないからだ。問題が解決しても、しなくても、毎日はやってくる。被害者も加害者も、同じ世界で暮らし続けていくしかない。だったら、言っても仕方ないことはもう忘れて、前向きに生きていくために、過去を編集した方が、合理的じゃないか。

 だから、チリのピノチェト政権は、拷問し殺害した人々の遺体を、誰にも見つからない場所に遺棄した。

 遺体の場所を明かせと求める遺族に対し、国民の視線は冷たい。もし、遺体が掘り返され加害者の犯罪が明るみに出れば、このメッキの調和はいとも簡単に剥がれ落ちてしまうからだ。

 映画に登場する歴史学者は「酷いことに、もっとも近い過去が闇に隠されているのです」と言う。

 

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 グスマン監督は、チリの過去を遥かな星の眼差しで見つめる。そのことによって、誰もが直視することを恐れる何層にも重ねられた虐殺の歴史に近づこうとする。

 クーデター後に生まれた若き天文学者はこう語る。「天文学者は過去を見つめ、そこから多くを学ぶ。過去を考えることになれている。それが天文学者の人生だ」。

 チリのアタカマ砂漠には、世界中の天文学者と考古学者が集う。何百万年も前に放たれた星の光、先コロンブス時代の先住民族の壁画……、この乾燥しきった砂漠は、もっとも過去に手が届きやすい。

 そして砂漠は、虐殺された人々のミイラや骨も保存している。命の起源を求め、銀河を捜索する天文学者の傍で、女たちが、「失踪」した愛する人の、死の証拠を求めて砂漠を歩き回っている。女たちは、腰を伸ばしながら言う。「天体望遠鏡で地上を見渡せればいいのに」。

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 若い天文学者は皺の目立ち始めた彼女たちに、望遠鏡で星を見せる。人間の骨を形成しているカルシウムは、星々で発見されるカルシウムと同じだ。

 命を見る。生命とは何かを見る。するとそこには、暴力の歴史の中で殺されてきた命が見える。それを見ないでいられようか。むごく救いもなく見るに堪えないとしても。自分を信じられなくなっても。星を見るように見たら良いのだ。天文学者の目になって身近な過去に向き合えないのか? そんな問い掛けをしている作品だ。

 日本にも、忘れたい過去がある。私の隣で、過去を探す人たちがいる。私たちが、その人たちと共に、望遠鏡を覗き込む日はいつだろう。

 

映画『光のノスタルジア』『真珠のボタン』公式サイト

(2015.10.10日本公開)

youtu.be

 

interview with Ana Tijoux - ラテン・ヒップホップの逆襲 | チリの女性MC、アナ・ティジュ、インタヴュー |

http://ele-king http://www.ele-king.net/interviews/003664/index-2.php

安倍政権に抵抗するポスト311世代の若者グループとインターネット ――学生集団SEALDsの事例から――

多分みんなでシェアしたらいいのではないかというやつ。
コピペ貼っときます。

安倍政権に抵抗するポスト
311世代の若者グループとインターネット

――学生集団SEALDsの事例から――

Protest Against the Abe Government by A Youth Group from Post 311 Generation: A Case from SEALDs, A Students Protest Group

田村貴紀1,富永京子2

Takanori TAMURA and Kyoko TOMINAGA

 

1法政大学                    Hosei University

2立命館大学     Ritsumeikan University

 

 

   Abstract   This presentation explores the use of the Internet by a youth protest group, SEALDs (Students Emergency Action for Liberal Democracy), who is against policies of the Abe government. They are post 311 generation who have commonly experienced 3.11 disasters when they were 14 to 18 years old.  After long absence of wide ranged protest actions by students, SEALDs has come to the fore and involved many young assenters to their actions. We analyses their strategies with the Internet and motivation through participation observation and interviews.

 

 

   キーワード ポスト311世代, 社会運動,立憲主義,安保法制,インターネット利用

 

 

1.はじめに

 特定秘密保護法や安保法制など,安倍政権が既に制定し元国会に提出している法案群について,抗議の声を上げているSEALDsStudents Emergency Action for Liberal Democracy:自由で民主的な日本を守るための,学生による緊急アクション)という若者の集団が注目を浴びている。SEALDs安倍政権による安保法制立案を契機として発足した。「担い手は10代から20代前半の若い世代」の若者集団であり,そのウェブサイトによれば「戦後70年でつくりあげられてきた,この国の自由と民主主義の伝統を尊重し現在,危機に瀕している日本国憲法を守るために,私たちは立憲主義・生活保障・安全保障の3分野」で活動すると宣言している

 国会前で毎週金曜日にSEALDsが主催する抗議集会では,衆議院憲法審査会で安保法制に違憲見解を示した憲法学者小林節がスピーチし話題を呼んだ。また同様に主催した渋谷での反安保法制街宣活動(2015629日渋谷)には,民主,共産,維新,生活,社民等ほとんどの野党から国会議員が参加し,共産と維新が手をつないで反安保法制をアピールするという異例の事態となり大きく報道された。

 本発表は,SEALDsの活動とそのインターネット利用についての試論である。SEALDs は,その活発なインターネット利用と卓越した戦略的プレゼンテーションが特徴的であり,ネット上にSEALDsをめぐる賞賛と批判も生じている。これを考察することには学術的利益がある。著者らはSEALDsに関する参与観察,聞き取り調査を進めており,その知見に基づいて発表する。しかし,SEALDsは前身であるSASPL時代(サスプル:Students Against Secret Protection Law特定秘密保護法に反対する学生有志の会)を含めれば,20142月から活動しているものの,SEALDsとしての発足は20155月であり,また原稿執筆時点で安保法制に関する国会審議が進行中である。従って,現時点では結論的な記述をするには尚早ではあるが,仮説を立案し,新規なイシューについて学会でディスカッションするために発表を行う。

 インターネットは現在の社会運動に深く関わっているが,その背景には,社会運動における組織と個人のあり方の変化がある。その理由の1つには,社会運動が組織や団体を中心としたものから,個人を中心とするものへと変化したことがある。日本においては,1960-1970年代の安保闘争時代からその傾向が指摘され,ベトナム戦争に反対したベ平連運動もそこに位置づけることができる(市橋, 2014; 道場, 2006)道場が述べたように,「日本社会党,日本共産党,民社党などの政党や労働組合ナショナルセンターを中心に置き,これらと連携しながら社会運動を展開する各種の大衆団体,といった社会運動における「大艦隊」のイメージは,個々の市民が自発的かつ自立的に問題に取り組む「市民運動」によって相対化され,両者の連携は必然的なものではなく,課題に応じたアド・ホックなものと再定義されること」になったのである(道場, 2006, p. 57)Japsperによれば,欧米における社会運動について,労働運動が主体であった時代には組織の境界がはっきりしていて,時に組織同士の利益が相反していた。しかしその後の社会運動は,より構成員が流動的になった。ヨーロッパでは,70年代のフェミニスト運動,環境運動,反核運動が合流して,80年代の軍縮運動につながったのである。(Jasper, 1999, p. 7)

 このような社会運動構成員の個人化と流動化の中で,情報伝達手段,リクルートの手段として,インターネットは有効であり,そこで議論も進行していく。五野井はこれを「社会運動のクラウド化」と呼んだ(五野井, 2012, p. 15)Slater et al.が述べるように3.11以後の日本の社会運動においても,このクラウド化は顕著である(Slater, Nishimura, & Kindstrand, 2012)。インターネット利用は情報伝達に有効であり,国境を超えて即時的に事実を世界に伝え(Lotan et al., 2011),人々の社会運動への参加の方法を変えた(Bennett, 2012)。日本においても官僚的構造がなく,組織的なアジェンダを要求しない,シングル・イシュー・ポリティクスの開かれた社会運動のあり方が興隆し,これと親和性の高いインターネットがあいまって人々の参加を促した。これは東アジア諸国においても同様であるとWonは述べる(Won, 2015)

 日本の社会運動やNGOは,早期からインターネット利用ししてきたが,90年代においては普及率が低く,社会運動との関連を考察するには不十分な状態であった。しかし2013年の段階ではインターネットの普及率は総務省の統計で82.8%に及び,社会運動のインターネット利用は現実的な段階になった。とはいえ,311後の社会運動の経験から見ると,インターネットの普及と社会問題への参加は必ずしも正相関ではない。運動体はインターネット以外のメディアの可能性を求めて雑誌の発行,マスメディアの取材対応等を行っている(小熊 , 2013, p. 322)

 他方で,社会運動の個人化と参加者の流動化が進んだということは,参加者がそれぞれのライフスタイルや感覚に合った運動携帯を選択していくことを意味する。その運動の主張内容のみではなく,社会運動のレパートリーや,プレゼンテーションの方法も大きな問題となってくる。Davisが言うように,社会運動への参加と言うリスクを伴う行為を行うためには,趣旨に賛同するという以上の何かが必要なのである。参加する,巻き込まれることは,論理的で目的遂行的なだけではなく,イマジネーションや直感,そして感情が絡んだことである(Davis, 2002, pp. 16–24)それは当事者性の感覚であったり,他の参加者とのなじみやすさや人間関係であったり(富永, 2013),構成員の世代であったり,ときにはその場に流れる音楽や(野間, 2012, pp. 61–64)シュプレヒコールのリズムやトーンである。デモや抗議を組織するものは,運動をどうプレゼンテーションするかということが大きな課題になる。90年代の郵便主流の時代から,通信メディアを使った社会運動の動員についての研究が行われている(Pamela & Marwell, 1992)。社会運動における動員は経済活動ではないが,比喩的にいえば一種のマーケティングなのである。

 このような状況の中でこれまでは,体験的な観察ではあるが,デモや抗議集会の参加者は40代から60代が多く社会運動への若者の参加が目立たないと評されてきた(日経新聞, 2011)。高齢化社会であるし,安保闘争時代の60歳代や反イラク戦争抗議を経験した可能性がある40歳代の社会運動への参加はそのモチベーションを推測することも可能である。しかし,図1に示すように,高齢化社会ではあるが,インターネットによって到達可能な10-20歳代の人口の割合は,50-60歳代と同等であり,それにも関わらず若年層の参加率は低いと考えられてきた。その状況でSEALDsが若年層を動かしたことは,驚きを持って迎えられた。それはどう可能であったか,考察する価値がある。

 

 

1世代別インターネットユーザーの絶対数 2013

 

2.SEALDsの活動の特徴とインターネット

(1)プレゼンテーション戦略

 SASPL時代から,デモ,抗議集会を主催してきたが,フライヤーのデザイン,告知動画が完成度が高く優れていることが特徴である。若者世代には,デザインが重要であることを深く認識しているのである。告知動画を時にCMと呼ぶことがあるのは,参加者マーケティングを意識していることを意味するし,その事自体がに特に違和感を持っていないことを示している。共産主義的なイデオロギーに主導された社会運動とは異質なのである。

 デモを構成するときにも,先頭に若者を配置し,ヴィジュアルをコントロールしている(図2)。つまり,報道される際の絵作りを意識したデモを行うのである。YoutubeSNSを使ってこれらの動画や写真,フライヤーを拡散することはSEALDsの基本戦略である。311以後の反原発運動,特に首都圏反原発連合(反原連)の抗議活動には,コアメンバーMisao Redwolfをはじめ,多くのイラストレーター,デザイナーが関わっており,プレゼンテーションを重視した活動は,反原連に限らず広範に取り入れられた戦略である。SEALDsはそれらの集団とは全く独立しているが,シングル・イシュー・ポリティクスなどのレパートリーを含め,間接的に戦略を継承していると言える。

 これらのプレゼンテーションは,第一に同世代の若者の参加を喚起するためであり,そして,若者がデモを行っていることを社会に主張するためである。メンバーの奥田愛基は「若者はなぜ声をあげないのかって言われ続けることにウンザリ」していたと述べる。そしてデモをやろうかと友人と話した時に,「デモはダサい」と反対され,それならばかっこいいデモをやろうと考えた(中村, 2014)。

 

 

2 SEALDs安保法制反対渋谷デモ 2015614日 (撮影:矢部 真太)

 

(2)3.11後を生きる

 前述したようにSEALDsが発信するフライヤーや動画,またウェブや新聞報道で見かける彼らを写した写真は,どれも若さが輝いていると言う表現がぴったりである。青春を謳歌し,実生活が充実していることを物語っているように見える。それは「デモをかっこよく」というSEALDsの戦略の結実でもある。

 しかしその生の輝きの意味を考える必要がある。SEALDsのメンバーは概ね18歳から22歳前後である。すなわち彼らは,14歳から18歳という人格形成期に,東日本大震災を経験したことになる。聞き取りを進めていくと,その刻印を見いだすことができる。メンバーの奥田愛基は,311震災後1本の動画を作っている。タイトルは『生きる312』。312とは311後の世界を比喩的に表現した言葉である。甚大な被害を生じた大震災の後も,生き延びた人々は生き続ける。それは一体どんな生なのか。UFPFF 国際平和映像祭グランプリ,地球の歩き方賞をとったその動画で,奥田はそれを問うている。彼は,様々な人物を取り上げて311後の日本の状況を描いた。動画の最終部分で,奥田は岩手で津波を生き延びた少年ショウに,生きるとは何かを尋ねている。

 

「ショウにとって生きるって?」

「朝起きたときじゃないかなぁ。なんか,今日も生きてるって感じる。311日そういう気がしなかったから。今日生きてるなってそんな気しなかったから。」

 

 

 311の後全てが終わってしまったような感覚の中で,当時19歳だった奥田はもう一度『312』の世界を生きることを選び取る。また参加者の一人である18歳の女性は,15歳の時にわざわざ静岡から出かけて,2012629日の首都圏反原発連合の主催する官邸前抗議に参加し,人々が道路に溢れ出る決壊と呼ばれる状態を目の当たりにする。さらにデモや抗議集会でしばしばマイクを握る学生でラッパーの牛田悦正は,311後の感覚について,インタビューに答えてこう答えている。

 

 80年代的なポストモダンの「終わる終わる」と言うのはノスタルジックなところもあって,実は終わりたくないっていうか,絶望がそんなに行き過ぎてない。「終わる終わる」と言ってたけど,内心は実は終わってないっていうか,でも完全に俺らの世代だと終わっちゃったところから出てきたから,俺らの方が終わり感が強くて,完全に終わってしまって何かが始まると(思っている)。

 

 東日本大震災は甚大な被害をもたらした自然災害であったが,同時に,すでに存在していた日本社会の様々な問題,すなわち原発,経済,労働,福祉,高齢化などが露呈した契機でもあった。「終わってしまった感」から人生が始まったとも言える彼らにとって幸福とは,それでも「なんか,今日も生きてるって感じ」なのである。SEALDsのすべてのメンバーが「24時間政治の話をしてるやつらばかりじゃない」けれど,「でもスピーチしているのを聞くと,なんかわかってると思う」と奥田。SEALDsの運動は,ポスト311世代の運動だと言えるであろう。センスやデザイン,同年代であるという共通項だけでなくポスト311世代としての生活感覚と危機感の共有が,若者世代を呼び寄せる。奥田は無関心層という言葉を嫌う。

 

俺がイベント行くときに,友達が無関心層とか言われたら嫌だから。何かしら生活に必死で,何かしら関心みんな持ってますよ。それが政治とかの言葉じゃないだけで

 

ある時代特殊的な経験をしたコーホートだという感覚が,同世代の若者に届く言葉を紡ぎだす。更にそのスタイルと戦略は,インターネットを通じて,口コミによってパッケージ化されて伝えられていく。東京で始まったSEALDsの運動から,SEALDs KANSAIが派生していく。そしてSEALDs KANSAIが京都・円山公園発で実施したデモの話を聞きつけた札幌の19歳の女性が,札幌の円山公園だと思い参加しようとしたが,京都なので断念し,9日間の準備で自分たちでデモを実施した。このような運動のパッケージ化と拡散は,反原発運動にも起こった。インターネット時代の社会運動の特徴というべきものである。

ポスト311世代の運動の特徴は,終わったところから始めるという不思議な新しさと力強さでもある。奥田は言う。「ある政治哲学者に,君たちでやってることって,結構戦後感があるよねと言われた。そう言われてみると,デモのスピーチの中でも丸山真男やジョン・ダワーを引用してることが多い。」奥田は,特定秘密保護法が可決された時,あるニュースキャスターが言った言葉にこだわる。「今日,日本の民主主義はお終わりました。」彼は答える。

 

終わったんなら,始めるしかないじゃん(東京新聞, 2014)

 

 

奥田は社会学古市憲寿の著書にかけて言う。「僕らは,絶望の国の幸福な〈闘う〉若者たち」なんです。」だからこそ,明るく,若々しく,強いメッセージを発し続ける。それは弱者の嘆願ではなく,被害者の訴えではなく,主権者から施政者への命令である。SEALDs戦後民主主義を再活性化しようとするのである。

(3)個として集まる自立分散共振型行動

SEALDsの運動のもう一つの特徴は,その徹底した個人主義である。彼らは,デモの中で個人に解体されることを目指す。スピーチをするときに,必ずと言っていいほど自分の所属と本名を名乗り,「私は特定秘密保護法に反対します」「私は安保法制に反対します」と,我々ではなく私を主語として宣言する。それは,集団を代表するものではなく,誰かを代弁するものでは無く,自分のために,自分が主張するのである。SASPL時代のウェブサイトにはこうある

 

様々なバックグラウンドを持つ「個人」としてデモに参加し,声を上げることを重視します。

他方で「私たちは個人としてアクションを起こす」ということは,言い換えれば,デモを通じて「個人」として解体される,ということにもなります。私たちが様々なバックグラウンドを持つということは私たちがある種共通の経験の下に生きていることを意味し,それ故に私たちは決して独立した個人とはなれず,絶えず誰かとどこかでつながっています。その意味で「個人」はフィクションに過ぎませんが,私たちはむしろ,政治的決定を行う「個人」への志向としてアクションを起こしています。

 

牛田はシモーヌ・ヴェーユを引用して,集団を志向することを拒む。またヴェーユが思考は1人でするものだと言ったことに深く共感している。

 

ヴェーユは,権力に対して戦うときに,集団になってしまった瞬間から権力者が持っていた悪いものをそのまま再生産することになる,というのです。

 

 

社会運動における組織と個人と言う問題考えると,これは特徴的な現象であると言えよう。前述のように,求心力を志向する組織的社会運動の後に,社会運動は個人化,流動化していった。311以降の社会運動でよく聞かれた言葉は,「頭数になる」であった。これは,組織行動に比べればはるかにゆるい求心力の中で,自分のもつ様々な主張,イシューを表面化させず,ひとつのイシューについて集団として意思表明する政治的な効果に,積極的な意味を見出すことであった。SEALDsは前述したように,「それ故に私たちは決して独立した個人とはなれず,絶えず誰かとどこかでつながっています」と述べ,普段の生活における「つながりの求心力」を警戒する。この点から権力に対峙する個人のあり方は,再び,他の誰かを代弁するのではない「主権者」でしかありえない。そしてSEALDsはそれぞれが個人でありながら集まって行動することを志向する。そうでありながら奥田は,バラバラだけど一つになれる時があるという。

 

奥田:(デモで)スピーチしている時にわ~ってなってる時ってそいつも周りも個人超えちゃってる。個人から出てる言葉なんだけど,聞いてる方も,俺がゆってるみたいな。本当に良いスピーチってそういう感覚がある。

牛田:そう,「それは俺がゆってるんだ。」Youtubeでみるキング牧師のスピーチもコールアンドレスポンスになっていく。

奥田:あれは俺の言葉だって,感じ。

牛田:二つがひとつになるみたいな。

 

 

この志向性と共振感覚は前述のように同世代に共有され,個人でありながら集まって行動するアクションを広げていく。このような自立分散共振型とでもいうべき行動形態にとって,インターネットを利用することは必須の事になり,そこで行われる議論は,重要な役割を果たすことになる。

 

(4)SEALDsをめぐる賞賛と批判

SEALDsのインターネット利用は,それ自体が持つ影響力を生み出すと同時に,SEALDsのプレゼンテーションやテキストを巡って,第三者同士の肯定的否定的意見があり,論争が行われ始めている。しかし,前述のようにSEALDsは発足後日も浅く,計量テキスト分析や社会ネットワーク分析は今後の課題とし,準備として現状の概観を述べたい。

SEALDsが行っているプレゼンテーションに対しては,賞賛する場合も,非難する発言も,SEALDsの提起する価値に対して,即応する形で発言が行われている。1つの価値を提示すると言う事は,当然ながらその価値の裏側を解釈する可能性を含む。つまりSEALDsの提示する,明るさ,若さ,デザインセンスなどに関して,それを受け入れ賞賛する声と,それを根拠として非難する声とがある。つまり,笑顔や明るい振る舞いに対しては「真剣味に欠ける」「怒りがない」という批判,実生活が充実した感じ(リア充性)に対しては嫉妬,若さに対しては,未熟者扱い,デザインセンスに対しては,「商業的専門家集団が背景にある」など能力への疑問,という形で表される。いずれも,1つの提出された価値に即応した評価であり,SEALDsのプレゼンテーションが成功している証左とも言える。

一方で著者らが別稿で考察した反原発運動に関する「アジェンダ設定権」をめぐる議論は比較的少ないと感じている。「アジェンダ設定権」をめぐる議論とは,例えば「反原発を主張しているが被爆者救済について強調していないのは間違った反原発運動だ」というような「あなたはこれををしていない申し立て」や,「反原発抗議に日の丸を持参することを制限しないのは,帝国主義に加担するものだ」という「行為の読み替え申し立て」である(Tominaga & Tamura, 2015)

他方,SEALDsの影響力が拡大するにつれて,本来あまり影響力持たないアクターのSEALDsを批判するテキストが第三者同士の論争を呼び,エコー現象的に影響力を拡大するという,反原発運動でも頻繁に見られた事例は起きている。

 

まとめ

本発表では,安倍政権の政策に反対する学生を中心とする若者集団SEALDsの活動とインターネット利用について分析した。近年の社会運動に置いて若者の参加が目立たないということが指摘されてきたが,その若者層にアピールしていたという点でまず特筆すべき運動である。

彼らの活動は,組織論的には,構成員が組織に縛られず,参加する活動が流動的になって来たという安保闘争以来の長期的な傾向の中に位置づけられる。近年ではこれらの活動においては,制度的組織や施設,固定化した構成員の連絡組織に代わるものとしてインターネットが利用され「社会運動のクラウド化」と呼ばれている。SEALDsは,組織や資金を持たない無党派の学生集団として,インターネットを自分たちの運動の戦略的プレゼンテーションと参加者のリクルートに効果的に使っている。また311以降の反原発運動などの社会運動以上に,参加者の個人的独立性が強調された自立分散共振型運動であり,それらの点で社会運動のクラウド化の1つの典型例と言える。他方で国会議員や学者集団との連携,マスコミへのアピールを行い,その結果を再びインターネット上に表現する対面・マスコミ・ネット循環戦略をとっている。同時に,SEALDsの運動は311以降の反原発運動・反差別運動などの社会運動とは全く独立した運動であるが,運動のレパートリー,プレゼンテーションのセンス,運動の全国拡散の様相等において,従来の運動のエッセンスを継承しているものである。

若者にアピールした理由として,若者を前面に押し出しした絵作りと,スタイリッシュなデザインが挙げられるけれど,さらに重要なのは,14歳から18歳前後という人格形成期に東日本大震災を経験したという共通性によるコーホート感覚である。彼らが提示する若さと生の充実感は,感受性の強い時期にあの震災を経験した後の,それでも「なんか,今日も生きてるって感じる」感覚に由来する再出発のメッセージである。それを共有するからこそ,バラバラの個人の集まりを目指しながら,「あれは俺の言葉だって,感じ」(奥田)という共振感覚を生む。

SEALDsをめぐるインターネット上での議論を概観すると,SEALDsが行っているプレゼンテーションに対しては,賞賛する場合も,非難する発言も,SEALDsの提起する価値に対して,即応する形で発言が行われていた。一方で著者らが別稿で考察した反原発運動に関する「アジェンダ設定権」をめぐる議論は比較的少ない。SEALDsの影響力が拡大するにつれて,本来あまり影響力持たないアクターのSEALDsを批判するテキストが第三者同士の論争を呼び,エコー現象的に影響力を拡大するという現象はあった。これらを計量テキスト分析などを使って分析することは今後の課題である。

 

文献

Bennett, W. L. (2012): The Personalization of Politics Political Identity, Social Media, and Changing Patterns of Participation. The ANNALS of the American Academy of Political and Social Science, 644(1), 20–39.

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読書メモ《バーナード・クリック『デモクラシー』岩波書店 2002年》byあき

 デモクラシーとは魔法の言葉である。それがどのような意味を持つのか本当に多種多様な言葉がある。①統治原理としてのデモクラシー、②制度としてのデモクラシー、③行動のタイプとしてのデモクラシーが存在する。
 
 投票による統治が民主主義的なのだとしたら、ヴァイキングの投票による船長選びも民主的であり、修道委員長もまた選挙によって選ばれている。
 
 他にも、(独裁的)だと言われた各国の首相や大統領も自ら自分たちのことを民主的だと民主主義の「体裁を飾り立てた」。エジプトのナゼルは「大統領デモクラシー」と言ったし、パキスタンのアユーブ・カーンは「根本的デモクラシー」と呼んだ。他にも、スカルノは「誘導的デモクラシー」ソビエトや中国も自らのことを「人民的デモクラシー」であると大真面目に語った。トゥクビルはアメリカについて「平等のデモクラシー」を考えたが、一方でアンドリュー・カーネギーは資本主義の中で競争し合う「勝ちほこるデモクラシー」を正当化した。「真の意味」でのデモクラシーとは、どういう意味でデモクラシーなのか「限定が必要」なのである。
 
 古代ギリシャのデモクラシーは《FACE to FACE》のデモクラシーであった。ペリクレスの演説の中で「私たちは政治に関心を持たない者のことを自分のことで頭がいっぱいになってるとは言わない。そういうものはここアテナイでは役立たずだ、と言う。・・・最悪なのは、行動の帰結について適切な議論が尽くされる前に、やみくもに行動へと突き進むことだ。」(『戦史』2巻 37P)と語っている。この言葉は正しいが、考えなければいけないのは、紛れもなくペリクレスはある意味、扇動政治家(デマゴーグ)であり、圧倒的なリーダーシップやポピュリズム的であった。しかしながら、民衆が民主的な風土やカルチャーを持っていたため、そこに寄り添っても、独裁国家にはならなかったのである。
 
 アリストテレスは全面的にデモクラシーを支持したわけではない。「すべての人は平等に扱われるべきである」という目的を達成するために、条件付でデモクラシーを支持した。そして、その理念のない「単なるデモクラシー」に対してい懸念を抱いていた。また、アリストテレスはどのような政治体制であっても腐敗形態と理想形態があるはずだと考えていた。プラントンが思い描く、哲人王ではなく、教育と経験の一体化によって可能になる一種の実際的知恵の持ち主が必要となのである。
 
 プラトンのポリスに対する懸念はペリクレスが、民主的独裁者であったことの矛盾をついている。「ポリスが一体性へとむかってますます前進するにつれて、やがてポリスはポリスではなくなるような点が一点存在する。・・・それはあたかも和音が単なる同音に転じ、主旋律がたんなる一拍に平板化することである。本当のところポリスとは大在の構成員からなる集合体のことなのに。(『国家』)」
 
 君主制とは豪華な見た目の、氷山に当たれば二度と起き上がれないタイタニックであり、対してデモクラシーとは沈むことはないが常に足元が水に浸かっている筏である。byフィチャー・エイムズ

読書メモ《千葉眞『デモクラシー』(岩波書店 2000年)》byあき

 

目次

【Ⅰ 二つの民主主義 】

第1章 古代ギリシャ型民主主義

⑴政治的なるものとデーモス

 ・政治的なるもの概念と「ポリス的人間」

⑵民主主義の政治的メリット

⑶言説的公共空間としてのポリス

第2章 近代西欧型民主主義

⑴主権的国民国家とナショナルなもの

⑵近代市民革命と自由主義

⑶主権国家システム、デモクラシー、政治経済体制

 

【Ⅱ デモクラシーの徹底化に向けて】

Ⅲ基本文献案内

あとがき

 

 本書ではまず初めに、古代ギリシャにおける民主主義(直接民主主義、参加民主主義)と近代民主主義(間接民主主義、代議制)という2つの民主主義体制にいて書かれており、次に、ラディカルデモクラシーの視座から、デモクラシーを徹底化するためのヒントとなる「リベルテ・モラル(自由精神)」や日本の近代民主主義の歴史や伝統について、書かれている。

 

 本書において、「デモクラシー」と「民主主義」は使い分けられており(曖昧な部分もあるが)、概して民主主義の実際の状況や制度に関わる場合には「民主主義」「民主政」を使用し、理念や原理に関するものはデモクシーという言葉を使用している。

 

【 Ⅰ 二つの民主主義について 】

 古代ギリシャの民主主義と近代民主主義には大きな違いがある。古代ギリシャの民主制は数万人といった単位で構成されたポリスにおける、直接民主主義の色合いが強かった。近代民主主義においては、自由主義思想(立憲主義)のもと、間接民主制の色合いが強い。著書の中ではまず初めに、この2つの民主主義について書かれている。

 一章  古代ギリシャ型民主主義

 著者が古代ギリシャについて「不当に美談化したり神話化することは目的ではない」と語っているように、古代ギリシャにおけるポリスに参加する市民(人口割合でいうと15-20%ほどの18歳以上の男子)の生活的余裕は、基本的に、奴隷階級や女性の労働に依存していたからこそ成り立っていた部分がある。しかしながら、現在でも、民主主義に関する強いインスピレーションとして古代のギリシャの民主政参照されている。

 古代ギリシャにおける、民主政のありかたは「デーモクラティア(民主政」」という言葉が言い表すように、「民衆(デーモス)」「権力(クラティア)」である(P7)。要するに民衆による支配、自己統治ということが古代ギリシャの政治体制であった。デーモス(民衆)とは、民衆全体の意味として使われていたが、素朴な民衆(貧窮者を含む)、民会(エクレーシア)の正当な構成員などの意味としてもつかわれた。そしてその市民が、ポリスに関わる公的事柄に関する討議と決定に参与するうえでの政治的自由、平等は確保されていた。「等しきものにも、等しからざるものにも一種の平等を分かちあえる国制」(プラトン『国家』)という言葉が示すように、古代ギリシャはイソノミア(政治的平等)、イセーゴリア(平等な発言権)によって運営されていた。これらはフェシス(自然)の領域としての理解ではなく、あくまでノモス(人為的、法的)ものとして認識されていた。したがって、ポリスの内部では争いや暴力ではない形の政治が探求される一方、城壁の外にでれば暴力が際限なく広がっている世界がひろがっていた。

 アテナイの民主主義政治のポジティブな見解は、先ほど述べた通りだが、衆愚政治に陥ってしまうのではないかといった、民主政への懸念は当時から存在した。そして、トゥキュディデスによれば、実際古代ギリシャにおいても、ペリクレス以降の指導者は、民衆に気に入られようと媚びを売る言動が目立ち、数多くの過失がくりかえされることとなった(トゥキュディデス『戦史』) 。デマゴーグにや一部の専断的な指導者に対する歯止めの制度としては、陶片追放オストラシズム)、民会への違法提案告訴(グラフェー・パラノーモン)など、制度的装置も存在した。

 デーモス(民衆)の政治的判断の可能性として語られるのは「綜合議論」と呼ばれるものである。これは、民会に参加する、一人一人をみれば、卓越した人間ではないにしろ、貴族による少数支配の判断よりも、一般民衆の綜合的な知恵や判断(民主政)の方が適切であることが多いという主張である。またアリストテレスは「綜合議論」が成り立つための条件として、「共同に考え、共同に疑い、共同的に探求する」(アリストテレス『政治学』)というポリス的な人間(政治的動物)であること、そして広場(アゴラ)に集まり日頃からデーモス(民衆)による自由かつ非公式な交わりがあることを、を前提としていた。アテナイのデーモスにとって政治は自由と平等を集合的実存として追求する一つの生の様式という一面も有していたともいえる。

 

第2章 近代西欧型民主主義

 

 近代民主主義は古代ギリシャ型の民主主義と違い、直接民主主義ではなく間接民主主義を志向する。近代ヨーロッパにおけるに近代民主主義の創出は、近代市民革命の前後、イングランド革命、アメリカ独立革命フランス革命に遡る。古代ギリシャの民主主義がアテナイ・ポリスの自由な市民の共同体(デーモス)が中心であったのに対して、近代ヨーロッパの民主主義は中世的な「コルプス・クリスティアヌス(キリスト教有機社会)」の解体の中で、伝統的な文化が存続しなくなった歴史的状況から生じている。

 近代国家はどれも、血縁や先祖などの自然的絆および言語文化などの人為的絆を強調したとしても「想像の共同体」(B.ベネディクトアンダーソン)でしかなかった。そこでは、伝統社会の束縛から解放された、近代的人間が自由かつ平等な諸個人として人為的な「国家」の形成にかかわっていたのである。

 本書では主に近代民主主義の特徴として三つ挙げられている。

 一つ目に、広大な領土のなかで主権的国民国家の形成を成し遂げる過程で近代民主主義が出来上がってきたという歴史的経緯から、おのずとデモクラシーの思想と制度が「国民主権」や「国民」の枠組のなかで語られているということがあげられる、ナショナル・デモクラシ(国民主権的/国家主義的民主主義)であった。

 

 2つ目に近代西欧型民主主義は、古代ギリシャのポリスより広大な土地の統治するため、種々の統治上の仕組みを創出していかざる得ない必然性をおびることになった。それらは、法の支配(立憲主義)、三権分立政教分離、代議制、複数政党制、官僚制、選挙と投票制、国民の基本的な人権などであった。

 3つ目、近代民主主義は、貴族階級や君主と民衆との対立や、有産階級(ブルジョアジー)とプロレタリアート(労働階級)との対立なのなかで、市民革命を通し獲得されたものである。そしてその背景には自由主義の影響が強く存在した。また、しばしば、「政治的自由主義」と「経済的自由主義」のあいだには齟齬がみられた。近代民主主義は、キャピタリスト・デモクラシー(資本主義的民主主義)としての構造の根を深く有しており、19世紀ではブルジョアと市民の間には緊張と対立は一貫してみられた。自由民主主義の中で、経済発展を施されるという考え(S.Mリプセット)は、20世紀後半では、むしろ「先進産業諸国」による負の側面として言われるようになった、外側にはインペリアル・デモクラシー(帝国主義的民主主義)の危険、また内側には「民主主義の欠損」の問題を抱えるという事態に等しく立ち至っている。

⑴主権的国民国家とナショナルなもの

 

 近代民主主義国家は、主権国家ナショナルなものであるということは説明した通りである。主権とは、長く続いた宗教戦争の末に考えられた考えであり、「ウエストファリア体制」とよばれる国際秩序の中で形成された。F.H.ヒンズレーの説明によれば以下のようなものである「主権という、用語は、元来そして長らく政治共同体においては最終的および絶対的権威が存在するという考え方を表してきた。・・・そしてそのほかどの場所にも最終的および絶対的権威は存在しないということである」また、J.ボダンは「国家における被治者に対する、最高にして絶対的かつ永続的な権力」つまり、一つの正統化への論理なのであり、国家において最終決断を下す究極権力がなくてはならないという思想を表現している。これはT.ホッブズにおける、専制的秩序か、それとも無政府状態かという二者択一の問いへの一つの回答であり、ポリスや共和国とは違った一大支配権力機構であった。

 

 国民国家の機能としては、違う言語、民族、宗教、文化といった相違を越えて(ないものとする)、擬制の共同体、国家的同質性を保証する「想像の共同体」を意味した。ナショナリズムの概念も多種多用な概念を内包しているが、A.D.スミスの類型定義によれば、基本的に民族的同質性を強調する「エスニック(民族型)・ナショナリズム」と国民的枠組みを強調する「シヴィック(市民的)ナショナリズム」の二つにのカテゴリーに分類される。P.アルターによれば「ナショナリズムは−国民と主権国家の双方に決定的な内在的価値を認めるイデオロギーおよび、政治的運動として理解されるであろう。それはまた、人民ないし人民のかなりの部分をなんとかして動員しようと試みる。それゆえにナショナリズムは、希望、情緒、行動を生み出すことが可能なきわめて動態的な原理として理解できる」という。動員的な原理がいい方向に向かうか、悪い方向に向かうのかという議論があるか、ただ世論が端的に悪魔的なイデオロギーとして語るのはかなり乱暴な議論であることはまちがいない。たしかに、近代の政治史は「解放的ナショナリズム」として開始されたが、歴史的変化に応じてすぐさま「帝国主義ナショナリズム」に変容していく、歴史的事例に満ちている。偉大な民主主義革命とよばれるフランス革命も、絶対君主に変わって立ち上がった人民もまた、法の違反者や「敵」に対して残忍であった。ナショナル・デモクラシーが内政に対して排外的になり、外部に植民地支配を追求してきた歴史と我々は向き合わなければならない。

 

 

 

⑵近代市民革命と自由主義

 C.ムフとE.ラクラウによれば、フランス革命とそれまでの政治には真に断絶があるという。1「人民の同意」という新しい正当性の導入、2自由と平等のに原理からなる民主主義革命の起源、3政治世界における新しい民主主義政治文化の創出、4社会秩序の根拠を神の意志や神慮に見出してきた「神学的=政治的論理」の破錠、5有機的一体性を備えた社会の喪失、6「確実性の指標が消失した、民主主義社会」(C.ルフォール)の登場などである(C.ムフ、E.ラクラウ『ポストマルクス主義と政治』)

 民主主義の誕生は象徴的秩序の変換を意味しており、旧体制の君主制の象徴的秩序とは本質的に異質な新たな象徴的な秩序を生み出したとされる。つまり、フランス革命の機能の歴史的な機能の一つは「世俗的な神の代理人」あるいは「地上における神の写し(象)」たる君主に主権的権力を賦与「神学的=政治的基礎づけ」を解体させたことにある。権力の座は「空虚な場所」となり、真空化してしまったその座に、形式的合理主義=近代民主主義(立憲主義、代議制、官僚制)の支配のメカニズムが確立した。こうした、民主主義は神のような「確実性を消失」し、「非確実性」において如実にしめされる。日確実性は全体主義の温床としても評価されるが、むしろ積極的に評価する見方もある。ルフォールはこうした特徴をもつ民主主義を「先例のない歴史的冒険」として理解した。

 

 他方ムフやフィレのアプローチとはことなる近代民主主義の源流に関する探索もなされてきた。それは17世紀のイングランド革命、イングランドのピューリタリズムに近代民主主義の源流を求めるアプローチである。

 A.Dリンゼイによれば、フランス型の民主主義が、啓蒙的であったり、反宗教的な民主主義の役割を強調するのに対して、イングランド型はプロテスタント的人間観、良心の自由と不可侵性、共同思考や討議の精神、さらにピューリタン集会(コングリゲーション)を一つの原型とした自発的共同社会と、宗教思想としてのピューリタニズムの役割を強調することになる。そこには以下4つの特徴がある。

 ⑴古代ギリシャのパレーシア(自由言論)に基礎づけられた、討議デモクラシーを引き継いだのは、むしろイングランド革命が関わっている。今日では、共同思考や「集いの意識」、言論、コミュニケーションがデモクラシーの論理とその実質的核心をもつことは明らかである。

 ⑵ピューリタリズムが近代民主主義に賦与したものは、キリスト教的な万人の人格的尊厳の承認とそれに裏打ちされた自由と平等の概念であった。

 ⑶デモクラシーが政治的な統治の理念である前に、基本的に社会の理論であるといいうことに明晰に主張した点。デモクラシーの母体を、リンゼイは非政治的な母体に見ている。国家に対する社会的存在論的優位性を前提としている。

 ⑷「自発的共同社会」を基盤とした民主主義社会の先取りした事実。この関連では、ピューリタン革命期前夜に登場したピューリタン集会こそ、誓約国家集団としての自発的共同社会の原型として認識されている。これはミクロなデモクラシーの学校でもあった。

 

 代議制民主主義について様々な批判が当てられてきた。例えば、J.−J.ルソーは、「イギリス人が自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民んは奴隷となり、無に帰してしまう」(『社会契約論』3章)との有名な言葉がある。

 公的的な意味での、代議制の特徴は以下のようなものである。E.カネッティ『権力と群像』において、相互の殺戮を断念して戦闘において頭を叩き割る行為の代わりに、投票による頭数を数える合理的方式(投票制)が生み出されたという。E.バークの古典的定式化によれば、自分の選曲の「委任」ないし、命令に従う「代理人」ではなく、政治的な判断をなすところの「代表」(representative)つまり、国民の「一般的理性に由来する共通善」を追求する代表に他ならないとした。

 J.Aシュンペーターは「エリート主義的な民主主義」を模索する。彼は、古典的な自己統治(古典的な民主主義)は存在できないという、点から出発する。彼は民主主義を政治的ー立法及び行政的ー決定に到達するための制度的装置だと定義した(『資本主義・社会主義・民主主義)。彼の理論の強みは現実にそれが機能している点であるが、そこで語られる民主主義の政治的役割は選挙を通じて支配権力行使を正当性するにすぎない。選挙を通じた「競合的な選挙政治」は手段であって、どのような政治を目指すのかという目的ではない。

 

 

⑶主権国家システム、デモクラシー、政治経済体制

 アテナイ直接民主制からはじまったデモクラシーの歴史的旅路は2000年後には主権的国民国家という形態をとるに至った。しかし、このデモクラシーの枠組みが、今や、国民国家の枠組みを超えつつあるのではないかという指摘がある。IT技術の発展、国境を越えた経済の発展、または、少数民族エスニック集団の自己主張やアイデンティティー承認の要求など、種々の動きが多面的に影響し合っている。近代国家の枠組みの中で締め付けられてきた、エスニシティー、宗教、言語、文化の相違承認が、多文化主義アイデンティティーの政治の元に、国民のカテゴリーに親和性を持たず強く要求するのである。「越境する民主主義」は、決して一枚岩ではなく、国境を越えて活動するNGONPOの働き、多種多様な少数民族の連帯など、「希望の連合」である。ここで語られているグローバル・デモクラシーのヴィジョンは決してリヴァイアサン世界国家ー巨大な支配権力を独占する、集権型世界国家ではない。巨大主権システムではなく、一種の「脱主権的政治」の可能性をしめしている。

 民主主義と資本主義の親和性について、多くの意見は肯定的である。これに対してR.ダーレンドルフは資本主義が必ずしも政治的民主主義に直結せず、むしろ第二次対戦前と戦中のドイツと近代日本の例をあげ、結果的に権威主義的政治に行き着く可能性を示している。R.ミリバンドは「資本主義的民主主義」の矛盾を指摘し、資本主義は少数のエリートの存在を必然的に前提にする制度であるのに対して、民主主義はそういった寡占政を承認することができず、寧ろ諸条件の平等を要求する。つまり資本主義文明は必然的に民主主義の制限を要求する。S.S.ウォリンは現在の政治経済制度が、第一に政治経済体制(the pplitical economy)が来ており、第二に民衆の政治体(pepole’s body politics)がきていることを指摘している。特に日本のようにデモクラシーの歴史の浅い国家にとって、政治は国家規模のシステムの政治=「家政(house-keeping)」の仕事へと変質していき、もともとのデモクラシーのコンセプトである共存共生のための「公的領域」を構成していく共同行為の営は地に落ちてしまうのではないかと著者は指摘する。

「夜の鼓動に触れる(2014年夏・ヒロシマ・ナガサキの旅を終えて)」  by あき

「夜の鼓動に触れる(2014年夏・ヒロシマナガサキの旅を終えて)」byあき

 

「僕は広島で、人間の正当性というものを具体的に考える、手がかりを得たと思う。そしてまた、僕が人間の最も許容したくないという欺瞞というものを眼にしたのも広島においてである。しかし、僕がみきわめることができたものの、全てはそれと比較を絶する巨大さの、暗闇にひそむもっと恐ろしいものの、小さな露頭にすぎないヒロシマノート』大江健三郎 

 


 平和を学ぶことは、平和では無い(もしくは無かった)現実と向き合うことである。いわゆる「平和を学ぶ」事は、平和そのものを謳歌することではないのだ。”いわゆる”「平和学習」にて、もし丸一日飲んだくれていたら、遊んでいたら、人々は不謹慎だと思うだろう(けど、本当のところ、それの何が悪いんだろうね)。本当は、辛く悲惨な話などというものは、誰も聞きたくない。少なくとも私はそのような物好きではない。そんなやつ居ない(と思いたい)。できたら(本当にできたら)、この場を抜け出して「平和そのもの」を謳歌していたい。
しかし、残念ながら、「平和学習」「平和(を)学(ぶ)」が意図する事は、そこにはない。喧騒なヒロシマの繁華街の地下で、まだ回収されていない無数の血と骨と何度でも向き合う作業。彼らが言うには、そうすることで、「あの悲惨な戦争を決して忘れず、繰り返させない」のだという。そして、なにより、核無き世界を掲げる彼ら/彼女らの戦いはまだ終わっていないのだ。

 

 我々が戦争やありとあらゆる差別、暴力と何度でも向き合うのは、未だ世界では殺戮や差別が絶えず問題が山積みであり、一国も早く平和な社会を望む故である。本来あるべきだった人間の姿、「人間の正当性」を確認し、また、人間の最も許容したくない「欺瞞」というものと向き合い、抵抗するためである。私の大切な日常、平和な日常、遊んだりするような日常、好きな人と笑って暮らしている日常、またその後産まれてくるこども達の日常の為に、戦争を二度と繰り返したくないのである。戦争という過去と向き合い、決して当たり前ではなく、もろく崩れやすいこの日常の意味を確かめていたいのである。そして今も続く苦しみや痛みを忘れ、娯楽に囲まれ楽しむだけの人生ではなく、その人の事を覚え、共に生き、心から楽しい人生(そんなモノがもしあるとするならば)を送りたいからである。そのために、私は戦争と向きあい、戦争の話を聞くのだ。忘れてはならないのは、未だ我々の謳歌していたい日常の中に、おびただしい数の核兵器が存在しているという事実であり、未だ政治的な「手段」として語られている現実だ。遠い過去の話だが、未来の話でもあるかも知れない緊張感の中に、常に我々はいるのである(そのような懐かしい未来などまっぴらごめんだ)。

 

70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。

 原爆や戦争を体験した日本そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。

 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。

2015年(平成27年)8月9長崎市長  田上 富久

 

 平和な世界を求む。その声を聞く。しかしながら、正直に言うと、戦争や被爆体験を聞くことが私にはどうしても辛いのである。それは、単純にそれそのものと向き合うのが恐いからではない。「ピンとこない自分」に耐えられないからである。それは知ろうとする努力の問題なのかも知れない。けれどそれだけではない、どこか分かろうとすると同時に、分かると言ってはいけない気がするのだ。分かる筈が無いと思ってしまうのだ。その時の、匂い、空気、痛み、乾き、鼓動、音、瞬き、行動、声の質感、手触り、体の感覚。そんな事をどうやって分かると言うのか、理解しろというのか。むしろ分からせようだようだなんて、伝えたいだなんて、そんな無理難題を言われても私は答えることができないのだ。考え過ぎかもしれない。しかし、そのような事が言える筈も無く、今、目の前で一生懸命話をしてくれている事を聞いている自分。そして口を開けば「戦後から70周年たった今、知ることは大切だと感じました」など平気で言える自分。そんな自分が話してくれた相手に申し訳なくてたまらないのだ。耐えられないのだ。

 

 


被爆者証言ビデオ 寺前妙子さん - YouTube

 

 北川健二さんの爆心地近くの話は衝撃だった。痛かった。しかし、今まで見てきたヒロシマの絵や写真を想像しながら分かろうとするのだが、そこに色や音や匂いは無かった事に気がついた時、今僕が聞いていた、思い浮かべていた風景なんてとんだ茶番じゃないかと気がついた。分かったような気がして、心の琴線に触れて泣きそうになる時があったことを恥じた。本当にそうだったのだろうか。そんなこと僕には分からない、分かる筈が無い。けれど、目の前にそれを見てきた人が必死に話している。それなのに何を訴えかけられているのか、本質的に「何か」が分からない。いや、原爆の非人道性や、歴史的な意味は理解できる(けれどそんな事は、政治の教科書にかいてある)。何が起こったのか、その話は理解ができる。でも、その本質的な部分、痛み、苦しみ、その人の奥底からあふれてくる気持ち。体験。それが分かるようで分からない。しかし分からないのに痛いのだ。そしてそんな事が分からない自分が辛く、恐い。

 

「おびただしい数の、しゃれこうべ、三十、四十、五十、五十一、五十二と呟きながら数えて声を失う。暗い二つの穴と化した目が宙を見つめて,私たちに訴えかける」   

朝日新聞 「天声人語」昭和57年7月31日

 

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中国新聞 昭和57年7月

 

 資料館で見たおびただしい骸骨や死体。僕に一体、何を訴えかけてきているのか骸骨は語らない。しかしこの感覚は、どこかで感じたことがある。それは沖縄でのガマの中だ。まだ、骨がそのままの形で残っている、集団自決のあったあのチビチリガマだ。ただならぬ雰囲気に何か言われているような気がした、あの声なき声だ。なにも分かりやしない。分かる訳がない。しかし確実に彼らは叫んでいる。それが何か分からないが確かに聞こえてくる。何を言っているのか分かりたいけど、決して分かる事はない。分からないのに痛いけれど、聞こえてくるものはどうしようもない。そこに居て、何か言っているのだから聞かざるをえない。

 しかし、北岡さんもこの骸骨の一つになっていた可能性も十分にあるではないか。もしかしたら、まさに、あの場から、あの写真から僕に訴えていたかも知れない。そうなってもおかしくはなかった。そして、被爆者の方の語りで分かる事ができないと感じてしまうあの感覚と、この死者から何を言われているのか理解できない感覚と似ているように感じた。当たり前だけれど、私はその場に居なかったのだから、感じた事がない痛みなのだから、想像を超えた言葉なのだ、当然である。私は「あなた」と違うのだから。もし全部が分かってしまったら、「そのまま」聞く事ができてしまったら、私は気が狂ってしまうかもしれない。

 「ああ、この手はー右手は第二間接から指の先までズルズルにむけて、その皮膚は不気味に垂れ下がっている。左手は手首から先、五本の指がやっぱり皮膚が向けてしまってズルズルになっている」「だんだん顔が強ばってきた、両手をそっと頬にあて、離してその空間を計ってみれば、その広さは二倍にもなっているような気がする。視界がだんだん狭くなってきた。ああ今日に空がみえなくなる」原爆体験記 朝日新聞社1975年

 分からない事と何故向きあうのか。分かってしまったら気が狂ってしまうような事と何故向き合うのか。もしかしたら人との出会いや本質的な「他者」という存在との出会いはこの分からなさを通してでしか、あり得ないのではないか。分からないけど確かに感じる違和感を通してでしか、その人の声を聞く事はできないのではないか。被爆者の方の話がつまらないとか、分からないとか、そう言う事を友達から小学生の時からずっと聞いてきた。(その担任の腕や、聞いた子の態度の問題はさておき)しかし究極的な意味では分からなくて当然である。どこまでいっても聞く事ができるが、分からない、しかしその痛みを何度も何度も聞くしか無いのだと思う。もし、一度聞いて分かってしまえるのならば、正直僕たちは聞く必要なんてないのだから。記号としての言葉を、本や映像等にかいてあるその記号的な「情報」を読めばいい。その一回で済んでしまう。けれども、やっぱり分からない。テレビでまとめられた番組以上に、実際にあってその場を見てきたと言う話は、分かりたくても分かる事ができない。大量の死者の骨が広島地上に見えない所に埋まっている事を僕たちは知っていても、何を見てきたのか、何を言っているのかなんて事は分からない。もしかしたら、それを語る人にとってそんな事は当たり前だったのかもしれない。

 出会いは、知ることや読む事など、本当はできないという事を教えてくれる。その「他者」がどこにいるのかを教えてくれる。彼らは切実に訴え賭ける。それはある種賭けだ。伝わるかどうか何てことではない。それでも言わなければならない言葉があるのだ。お前には分かりやしない。決して分かりやしない、言わねばならぬ言葉があるのだ。

 私の祖父は、戦争が終わった時、下関からフクシマの親戚を訪ねに北へ向かう途中にあのヒロシマを見たそうだ。辺りは焼け野原で何も無かった。「この世の終わりのような光景」だったという。何も言葉が出なかったそうだ。そして祖父もそこで何が起こったか理解できなかったと言う。

 

 震災が起こって、新聞を広げた時おじいちゃんは唸った。「ワシがヒロシマで見た光景はまさにコレじゃ」と興奮気味に言っていた。おじいちゃんは何か、知っていたのだ。震災一週間少したって僕もその新聞で映された光景に立ってみた。荒廃した町(のようなもの)が広がっていた。ありとあらゆるものは破壊されつくし、灯りも無く、鉄骨だけが残った建物で火を焚いた。「この世の終わりみたいな光景」だった。ヒロシマも本当にあんな光景だったのだろうか。分からない。しかし、何かが似ていた。規模やその因果関係は違えど、町ごと消滅した後に、絶望しかないその地から、出発しようとする人達の姿。私は何度も被災地の方の話を聞いた。泣きながら彼は話していた。来る人、来る人に、何度も何度も、繰り返し、繰り返し、同じ話を。死とそれから生きてた自分の話を。そしてそれを語る理由を。伝えるべきことを。

 

「つぶらな眼を精一ぱい見ひらき

 まじまじと見つめる童女よ

 

 お前の眼には

 私がお化けのように映るのだろうね

 

 私がお化けのようにならされた

 そんな過程を

 いくら説明したって

 

 お前にはわかりはしない

 だが お前の金色に光った生毛の

 ブルブルッとしたその肌に

 放射能がふりかかったとき

 そのなめらかな肌は醜くひきつるのだ

 

 いやその時は何となくても

 五年後 十年後 二十年後

 いつの日か くさりくさって

 私と同じような化物になるのだ

 

 そう思うと

 お化けのような顔をしていても

 どんなに疲れきっていても

 原水爆禁止の話をしなけりゃと思うのだ

 つぶらな眼を精一ぱいみひらき

 まじまじと見つめる童女よ」
『童女へ』福田須磨子

 

 


 私には、想像する事しかできないし、こうやって文字にすることでしか対話することができない。あなたは、あなたの痛みを分からせる事ができない。本質的には伝える事ができないと知りつつ、何故それでも語るのですか。おびただしい死体の数々よ。骨よ。そして、それを見てきたあなたよ。今の時代をあなた達はどう見るのですか。問題は山積みで、しかし、それでも平和を謳歌していたと願う私たちに、「他者」であるこの私に、何を語ろうとするのですか。けれども、私は何度でも、そのを声を聞き、向き合ってみようと、這いつくばっている。被爆者の方はいずれ死んでしまう。私が歳をとり、あなた達と同じ年齢になったとき、あなた達はあの白骨の一つになっている。しかし、それでもなお、向き合い続けて行こうと思う。何度でも向き合い確かめる。この分からなさを抱えながら、何度も聞こうと思う。「お前には分からない」事が確かに在ったのだと。そしてそれは繰り返してはならないのだと。あの時の匂いを、おびただしい死を、悪魔のうめき声のような音を、終末的な空の色を、口のなかのじゃりっとする感触を、皮膚が溶ける感覚を、母を呼ぶ叫びを、最後の別れの挨拶を、水を求める声を、乾きを、痛みを、苦しみを、涙を、怒りを、憎しみを、赦しを、勇気を、生を、希望を。

 


「鉄板えれじい」ZAO - YouTube

 とおちゃんかあちゃんピカドンでハングリー はぁーどしたどした ハイ プリーズギブミー
チョコレートにアメちゃん やい アメ公俺にもチューイングガムよこせ
しゃれこうべ見つけりゃ怨の字書いて 5ドルで買ってく奴さんバカでぇ
サンキューサンキューおまけにヨンキュー 選ばない手段プレゼントフォーユー
焼け野原からこんにちわ 何も残ってねえんだよこっちには
どっちにしたって生きてくんなら現状に天井張らずに裸足で駆けていこう
むこう50年間草木も生えない土地と言われど
悲しみ苦しみをバネにかき消すキノコ雲

生きてこうよこの希望に燃えて
愛の口笛 たからかに
生きてこうよこの希望に燃えて
この人生の並木道

となりの朴さんも理解ある大人 HOTな関係築けるならどっから
来た人でも問題ない もう反対はさせない決して「非国民だ」なんてな
足んねぇ頭で思考回路はショート寸前 技量不足、暴走運転
してるようじゃここらじゃ笑われる まぁ見てなさい君もまだ変われる
熱した鉄板の上どんなんでもいい、さっさとのせとくれ
野菜も結構 魚介も結構 薄くのばす溶いたメリケン粉
パッと見具材同士喧嘩しそう・・・でも結局は、まあるく収まる
焼き方とソウルを見て想像せえ こんな歌の裏にある『非日常』をね

生きてこうよこの希望に燃えて
愛の口笛 たからかに
生きてこうよこの希望に燃えて
この人生の並木道