「夜の鼓動に触れる(2014年夏・ヒロシマ・ナガサキの旅を終えて)」  by あき

「夜の鼓動に触れる(2014年夏・ヒロシマナガサキの旅を終えて)」byあき

 

「僕は広島で、人間の正当性というものを具体的に考える、手がかりを得たと思う。そしてまた、僕が人間の最も許容したくないという欺瞞というものを眼にしたのも広島においてである。しかし、僕がみきわめることができたものの、全てはそれと比較を絶する巨大さの、暗闇にひそむもっと恐ろしいものの、小さな露頭にすぎないヒロシマノート』大江健三郎 

 


 平和を学ぶことは、平和では無い(もしくは無かった)現実と向き合うことである。いわゆる「平和を学ぶ」事は、平和そのものを謳歌することではないのだ。”いわゆる”「平和学習」にて、もし丸一日飲んだくれていたら、遊んでいたら、人々は不謹慎だと思うだろう(けど、本当のところ、それの何が悪いんだろうね)。本当は、辛く悲惨な話などというものは、誰も聞きたくない。少なくとも私はそのような物好きではない。そんなやつ居ない(と思いたい)。できたら(本当にできたら)、この場を抜け出して「平和そのもの」を謳歌していたい。
しかし、残念ながら、「平和学習」「平和(を)学(ぶ)」が意図する事は、そこにはない。喧騒なヒロシマの繁華街の地下で、まだ回収されていない無数の血と骨と何度でも向き合う作業。彼らが言うには、そうすることで、「あの悲惨な戦争を決して忘れず、繰り返させない」のだという。そして、なにより、核無き世界を掲げる彼ら/彼女らの戦いはまだ終わっていないのだ。

 

 我々が戦争やありとあらゆる差別、暴力と何度でも向き合うのは、未だ世界では殺戮や差別が絶えず問題が山積みであり、一国も早く平和な社会を望む故である。本来あるべきだった人間の姿、「人間の正当性」を確認し、また、人間の最も許容したくない「欺瞞」というものと向き合い、抵抗するためである。私の大切な日常、平和な日常、遊んだりするような日常、好きな人と笑って暮らしている日常、またその後産まれてくるこども達の日常の為に、戦争を二度と繰り返したくないのである。戦争という過去と向き合い、決して当たり前ではなく、もろく崩れやすいこの日常の意味を確かめていたいのである。そして今も続く苦しみや痛みを忘れ、娯楽に囲まれ楽しむだけの人生ではなく、その人の事を覚え、共に生き、心から楽しい人生(そんなモノがもしあるとするならば)を送りたいからである。そのために、私は戦争と向きあい、戦争の話を聞くのだ。忘れてはならないのは、未だ我々の謳歌していたい日常の中に、おびただしい数の核兵器が存在しているという事実であり、未だ政治的な「手段」として語られている現実だ。遠い過去の話だが、未来の話でもあるかも知れない緊張感の中に、常に我々はいるのである(そのような懐かしい未来などまっぴらごめんだ)。

 

70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。

 原爆や戦争を体験した日本そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。

 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。

2015年(平成27年)8月9長崎市長  田上 富久

 

 平和な世界を求む。その声を聞く。しかしながら、正直に言うと、戦争や被爆体験を聞くことが私にはどうしても辛いのである。それは、単純にそれそのものと向き合うのが恐いからではない。「ピンとこない自分」に耐えられないからである。それは知ろうとする努力の問題なのかも知れない。けれどそれだけではない、どこか分かろうとすると同時に、分かると言ってはいけない気がするのだ。分かる筈が無いと思ってしまうのだ。その時の、匂い、空気、痛み、乾き、鼓動、音、瞬き、行動、声の質感、手触り、体の感覚。そんな事をどうやって分かると言うのか、理解しろというのか。むしろ分からせようだようだなんて、伝えたいだなんて、そんな無理難題を言われても私は答えることができないのだ。考え過ぎかもしれない。しかし、そのような事が言える筈も無く、今、目の前で一生懸命話をしてくれている事を聞いている自分。そして口を開けば「戦後から70周年たった今、知ることは大切だと感じました」など平気で言える自分。そんな自分が話してくれた相手に申し訳なくてたまらないのだ。耐えられないのだ。

 

 


被爆者証言ビデオ 寺前妙子さん - YouTube

 

 北川健二さんの爆心地近くの話は衝撃だった。痛かった。しかし、今まで見てきたヒロシマの絵や写真を想像しながら分かろうとするのだが、そこに色や音や匂いは無かった事に気がついた時、今僕が聞いていた、思い浮かべていた風景なんてとんだ茶番じゃないかと気がついた。分かったような気がして、心の琴線に触れて泣きそうになる時があったことを恥じた。本当にそうだったのだろうか。そんなこと僕には分からない、分かる筈が無い。けれど、目の前にそれを見てきた人が必死に話している。それなのに何を訴えかけられているのか、本質的に「何か」が分からない。いや、原爆の非人道性や、歴史的な意味は理解できる(けれどそんな事は、政治の教科書にかいてある)。何が起こったのか、その話は理解ができる。でも、その本質的な部分、痛み、苦しみ、その人の奥底からあふれてくる気持ち。体験。それが分かるようで分からない。しかし分からないのに痛いのだ。そしてそんな事が分からない自分が辛く、恐い。

 

「おびただしい数の、しゃれこうべ、三十、四十、五十、五十一、五十二と呟きながら数えて声を失う。暗い二つの穴と化した目が宙を見つめて,私たちに訴えかける」   

朝日新聞 「天声人語」昭和57年7月31日

 

 f:id:sealdsjpn:20151008040943p:plain

中国新聞 昭和57年7月

 

 資料館で見たおびただしい骸骨や死体。僕に一体、何を訴えかけてきているのか骸骨は語らない。しかしこの感覚は、どこかで感じたことがある。それは沖縄でのガマの中だ。まだ、骨がそのままの形で残っている、集団自決のあったあのチビチリガマだ。ただならぬ雰囲気に何か言われているような気がした、あの声なき声だ。なにも分かりやしない。分かる訳がない。しかし確実に彼らは叫んでいる。それが何か分からないが確かに聞こえてくる。何を言っているのか分かりたいけど、決して分かる事はない。分からないのに痛いけれど、聞こえてくるものはどうしようもない。そこに居て、何か言っているのだから聞かざるをえない。

 しかし、北岡さんもこの骸骨の一つになっていた可能性も十分にあるではないか。もしかしたら、まさに、あの場から、あの写真から僕に訴えていたかも知れない。そうなってもおかしくはなかった。そして、被爆者の方の語りで分かる事ができないと感じてしまうあの感覚と、この死者から何を言われているのか理解できない感覚と似ているように感じた。当たり前だけれど、私はその場に居なかったのだから、感じた事がない痛みなのだから、想像を超えた言葉なのだ、当然である。私は「あなた」と違うのだから。もし全部が分かってしまったら、「そのまま」聞く事ができてしまったら、私は気が狂ってしまうかもしれない。

 「ああ、この手はー右手は第二間接から指の先までズルズルにむけて、その皮膚は不気味に垂れ下がっている。左手は手首から先、五本の指がやっぱり皮膚が向けてしまってズルズルになっている」「だんだん顔が強ばってきた、両手をそっと頬にあて、離してその空間を計ってみれば、その広さは二倍にもなっているような気がする。視界がだんだん狭くなってきた。ああ今日に空がみえなくなる」原爆体験記 朝日新聞社1975年

 分からない事と何故向きあうのか。分かってしまったら気が狂ってしまうような事と何故向き合うのか。もしかしたら人との出会いや本質的な「他者」という存在との出会いはこの分からなさを通してでしか、あり得ないのではないか。分からないけど確かに感じる違和感を通してでしか、その人の声を聞く事はできないのではないか。被爆者の方の話がつまらないとか、分からないとか、そう言う事を友達から小学生の時からずっと聞いてきた。(その担任の腕や、聞いた子の態度の問題はさておき)しかし究極的な意味では分からなくて当然である。どこまでいっても聞く事ができるが、分からない、しかしその痛みを何度も何度も聞くしか無いのだと思う。もし、一度聞いて分かってしまえるのならば、正直僕たちは聞く必要なんてないのだから。記号としての言葉を、本や映像等にかいてあるその記号的な「情報」を読めばいい。その一回で済んでしまう。けれども、やっぱり分からない。テレビでまとめられた番組以上に、実際にあってその場を見てきたと言う話は、分かりたくても分かる事ができない。大量の死者の骨が広島地上に見えない所に埋まっている事を僕たちは知っていても、何を見てきたのか、何を言っているのかなんて事は分からない。もしかしたら、それを語る人にとってそんな事は当たり前だったのかもしれない。

 出会いは、知ることや読む事など、本当はできないという事を教えてくれる。その「他者」がどこにいるのかを教えてくれる。彼らは切実に訴え賭ける。それはある種賭けだ。伝わるかどうか何てことではない。それでも言わなければならない言葉があるのだ。お前には分かりやしない。決して分かりやしない、言わねばならぬ言葉があるのだ。

 私の祖父は、戦争が終わった時、下関からフクシマの親戚を訪ねに北へ向かう途中にあのヒロシマを見たそうだ。辺りは焼け野原で何も無かった。「この世の終わりのような光景」だったという。何も言葉が出なかったそうだ。そして祖父もそこで何が起こったか理解できなかったと言う。

 

 震災が起こって、新聞を広げた時おじいちゃんは唸った。「ワシがヒロシマで見た光景はまさにコレじゃ」と興奮気味に言っていた。おじいちゃんは何か、知っていたのだ。震災一週間少したって僕もその新聞で映された光景に立ってみた。荒廃した町(のようなもの)が広がっていた。ありとあらゆるものは破壊されつくし、灯りも無く、鉄骨だけが残った建物で火を焚いた。「この世の終わりみたいな光景」だった。ヒロシマも本当にあんな光景だったのだろうか。分からない。しかし、何かが似ていた。規模やその因果関係は違えど、町ごと消滅した後に、絶望しかないその地から、出発しようとする人達の姿。私は何度も被災地の方の話を聞いた。泣きながら彼は話していた。来る人、来る人に、何度も何度も、繰り返し、繰り返し、同じ話を。死とそれから生きてた自分の話を。そしてそれを語る理由を。伝えるべきことを。

 

「つぶらな眼を精一ぱい見ひらき

 まじまじと見つめる童女よ

 

 お前の眼には

 私がお化けのように映るのだろうね

 

 私がお化けのようにならされた

 そんな過程を

 いくら説明したって

 

 お前にはわかりはしない

 だが お前の金色に光った生毛の

 ブルブルッとしたその肌に

 放射能がふりかかったとき

 そのなめらかな肌は醜くひきつるのだ

 

 いやその時は何となくても

 五年後 十年後 二十年後

 いつの日か くさりくさって

 私と同じような化物になるのだ

 

 そう思うと

 お化けのような顔をしていても

 どんなに疲れきっていても

 原水爆禁止の話をしなけりゃと思うのだ

 つぶらな眼を精一ぱいみひらき

 まじまじと見つめる童女よ」
『童女へ』福田須磨子

 

 


 私には、想像する事しかできないし、こうやって文字にすることでしか対話することができない。あなたは、あなたの痛みを分からせる事ができない。本質的には伝える事ができないと知りつつ、何故それでも語るのですか。おびただしい死体の数々よ。骨よ。そして、それを見てきたあなたよ。今の時代をあなた達はどう見るのですか。問題は山積みで、しかし、それでも平和を謳歌していたと願う私たちに、「他者」であるこの私に、何を語ろうとするのですか。けれども、私は何度でも、そのを声を聞き、向き合ってみようと、這いつくばっている。被爆者の方はいずれ死んでしまう。私が歳をとり、あなた達と同じ年齢になったとき、あなた達はあの白骨の一つになっている。しかし、それでもなお、向き合い続けて行こうと思う。何度でも向き合い確かめる。この分からなさを抱えながら、何度も聞こうと思う。「お前には分からない」事が確かに在ったのだと。そしてそれは繰り返してはならないのだと。あの時の匂いを、おびただしい死を、悪魔のうめき声のような音を、終末的な空の色を、口のなかのじゃりっとする感触を、皮膚が溶ける感覚を、母を呼ぶ叫びを、最後の別れの挨拶を、水を求める声を、乾きを、痛みを、苦しみを、涙を、怒りを、憎しみを、赦しを、勇気を、生を、希望を。

 


「鉄板えれじい」ZAO - YouTube

 とおちゃんかあちゃんピカドンでハングリー はぁーどしたどした ハイ プリーズギブミー
チョコレートにアメちゃん やい アメ公俺にもチューイングガムよこせ
しゃれこうべ見つけりゃ怨の字書いて 5ドルで買ってく奴さんバカでぇ
サンキューサンキューおまけにヨンキュー 選ばない手段プレゼントフォーユー
焼け野原からこんにちわ 何も残ってねえんだよこっちには
どっちにしたって生きてくんなら現状に天井張らずに裸足で駆けていこう
むこう50年間草木も生えない土地と言われど
悲しみ苦しみをバネにかき消すキノコ雲

生きてこうよこの希望に燃えて
愛の口笛 たからかに
生きてこうよこの希望に燃えて
この人生の並木道

となりの朴さんも理解ある大人 HOTな関係築けるならどっから
来た人でも問題ない もう反対はさせない決して「非国民だ」なんてな
足んねぇ頭で思考回路はショート寸前 技量不足、暴走運転
してるようじゃここらじゃ笑われる まぁ見てなさい君もまだ変われる
熱した鉄板の上どんなんでもいい、さっさとのせとくれ
野菜も結構 魚介も結構 薄くのばす溶いたメリケン粉
パッと見具材同士喧嘩しそう・・・でも結局は、まあるく収まる
焼き方とソウルを見て想像せえ こんな歌の裏にある『非日常』をね

生きてこうよこの希望に燃えて
愛の口笛 たからかに
生きてこうよこの希望に燃えて
この人生の並木道